株式会社小野仁
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2014年8月09日 生命について考える-001_20140809

初稿 20090523

われわれは現在、一つの系(地球システム)の中に相当数の生物の相を確認している。これが宇宙一般にみて多いのか少ないのかは判らないが(アシモフは多いことを前提とした小説を書いていたが)、生物が辿った全ての枝道に対比すれば少ないのは明らかだ。

 生命は宇宙誕生から100億年の時を必要としたのか、それとも40億年程度でもよかったのか、前者であれば地球は稀少な存在であるかも知れない、後者であれば一亜種という地位しか得られない。

地球上の生物の進化が、宇宙におけるその他諸々の生物の進化の一亜種だとすれば、「進化に取り残された」とわれわれが傲慢にも思っている種が実は、これからの進化を保証し担保し、あるべき時に備えるサブセット、シャドーキャビネット、もしくは必要不可欠なパーツ(物理的に)の役目を果たすのかも知れない。

 また、われわれの傲慢な目からすればおよそ必要とは思えない機能や表現系、遺伝子系が現存しているのは、生物多様性(遺伝子の多様性)という便利な概念だけでは説明できないのではないか。

 かつてオズワルド・セオドア・エイブリーによって控えめに発表され証明された遺伝情報の担体?としてのDNA(エイブリーは核酸と捉えていたようだ)、クリックとワトソンがロザリンド・エルシー・フランクリンの写真に啓発されて描いた、その機能を余すところ無く表現した構造はしかし、あまりにも美しいが故にすべての思考の基底となってわれわれを縛り付けているかもしれない。

その1953年は生物学にとってエポックメーキングな年であった。

DNAの二重螺旋構造が発表され、129系マウスからES細胞が発見された。

さらにユーリー=ミラーの実験によって、アミノ酸の無生物的合成が確認されたのである。

原始大気の組成に関してユーリー=ミラーの実験は光を失ったかに見えるが、無機から有機・単純な物質から複雑な有機分子が生成されることを実証した功績は今後も輝き続けるだろう。

 20世紀の物理学は、良くも悪くも相対論と量子論を支柱としそのワクの中で数々の成果を挙げてきた。しかし1940年代終わりごろ湯川秀樹が「量子論と相対論の堅固なワクから、何とかして退出したいと、私は切望するようになった」といみじくも述懐、喝破したように、今われわれは進化論と遺伝子というワクからいったん退出し、その先の地平(漠然としているが)から生命に迫らねばならないのではないか。そこで得られた成果から進化論と遺伝子を俯瞰してみたとき、その時初めてわれわれはシュレディンガーの『WHATISLIFE』にこう答えることが出来るだろう、「“生命”とは地球システムの中で人間が考え出した概念であり、より広義の生命を想像出来ない限り定義できない」。

 かつてシュレディンガーは『精神と物質』に次のように記している、「・・・私たちの自然科学――ギリシア[以来]の科学――は、客観化にその基礎を置いているからです。客観化によって科学は、認識の主体あるいは精神に関する適切な理解から自らを切り離してしまったのであります。だがこれこそがまさに、私たちの現在の考え方が東洋思想からの輸血を必要としている点なのだと、私は信じております。 (中略) ここでの私の目的は、同一性の教理と自然科学的な世界観とが将来同化する――そのために冷静さと論理的正確さとを代償として支払うことなしに――道を切り開くために、寄与することなのであります。」

「私の提言を申しますと、両方の矛盾共、西洋科学の構造に東洋の同一化の教理を同化させることによって解き明かされるだろう(いまここでそれを解くつもりはありません)ということなのであります。精神は、まさにその特性からして単一のものなのであります。一切の精神は一つだと言うべきでしょう。私はあえて、それは不滅だと言いたいのです。なぜなら、精神は特別の時刻表をもっておりまして、精神にとっては常にいまがあるのみなのですから。まことに精神にとりましては、過去も未来もありません。記憶と予想を包み込んだいまがあるのみです。だが私は、私たちの[西洋の]の言葉はこれを表現するには適さないということを認めるものです。」Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger/1958 /1987工作舎 中村量空(理論物理学・複雑系・科学思想が専門、理学博士、複雑系研究の世界的権威/福井県立大学教授を経て2001年11月29日、52歳で永眠)訳

 シュレディンガーの見据えた地平も、捉えた「東洋の同一化の教理」(ウパニシャッドからと思われる/ブラフマン(宇宙の本質)とアートマン(自己の本質)は究極的には同一であるとするヒンドゥ教およびインド哲学の思想)の深奥も不明だが、少なくとも彼はこう考えたはずである、“DNAの構造は解明されたがそれが直ちに生命を説明するものではない”と。

 ギリシア[以来]の西洋科学は、客観化と同じくらいの情熱をもって連続性を重視してきた。いま、その客観化と連続性のはるか地平に暗雲がわき出ている。

連続性を客観的に観測できない、説明できない、というよりは“できない”ことを前提にそれでもなお“冷静さと論理的正確さ”を失わずに系全体のふるまいと個々の過程を把握しようとする“複雑系”という概念が、西洋科学をそわそわもぞもぞ(この英訳は/I feel something creeping up my mindかな)させている。

冷静さと論理的正確さ、そして客観化と連続性という概念に慣れ親しんできた西洋科学にとって “複雑系”の壁は主体化の壁である。

ジャンプ(論理の飛躍ではない)を許容できない精神には、主体化は分厚い壁として立ちはだかる。

「全体とは、部分の総和以上のなにものかである」アリストテレスは西洋科学の原初において命題を出していたのに。

デカルト以来一途に還元主義へ突き進んだ西洋科学は、量子論の出現以来今もそわそわもぞもぞしているのである。